2017年5月29日ホーチミン市内→タンソンニャット国際空港

朝起きて、すぐに郵便局に向かった。ツアーデスクの女性に声を掛けようとしたが、昨日とは別の女性だった。

 

おじいさんはすぐに見つかった。

 

昨日よりも人の少ない郵便局の机の一角で、おじいさんのまわりの空気が少しだけピンとしていた。近づく人は誰もいなかった。机の上はぶ厚い辞書と手紙の山で、声を掛けられるような雰囲気ではなかった。自分以外の誰かのための仕事だった。いったいこの人はどんな気持ちで手紙を読んできたんだろうか、と思ったらちょっと泣けてきた。

 

ベンタン市場で漆塗りの箱に入ったトランプに出会った。店員の女性は日本語で話しかけてきた。「オネーサン、ワタシ、マケルカラ」「オネーサン、カワイイ、ヤスクスル」「ワタシ、ライネン、ニホンイク」「ニホン、タカイカラ、オネガイ」かなり不安になる言葉遣いだが、市場を3周くらいして、やっぱり買うことにした。店員の女性はカードの一枚を取り出して、ライターで火をつけたが、傷一つ付かなかった。「手品じゃないよね?」と言ったら爆笑していた。

 

昼頃に大雨が降った。ガイドブックに載っている最新おしゃれスポットらしい雑居ビルは、隣のビルの屋根を打つ雨音が響きまくっていた。スウェーデン男子はちゃんと行けただろうかと思った。本屋で雨宿りをした。二階が紀伊国屋で、日本の本が普通に売っていた。値段も1.5倍くらいで、文庫本なのでむしろ一階で売っているベトナムの本よりも安いかもしれない。仮にこの街に住むとしたらかなりありがたい値段設定だと思った。ドンを持っていても仕方がないので、空港までのバス代20000ドンと晩ごはん・ビール代50000ドンを残して、スーパーマーケットでダメ押しのお土産を買いに行ったつもりが、ギリギリお金が足りなくて結局カードで払った。

 

ホステルに着くと、インドネシア女子とインド男子がラウンジにいた。トランプを見せると「いいね〜!」と褒めてくれた。インド男子は「でもこれ遊ぶには扱いづらくない?」と現実的なことを言った。受付の女の子は朝とは別の子だった。「いくらしたの?」で「1万円から値切って4500円で買った!」と言うと、インド男子は「あそこの市場は1/3まで値切れるものだ」と言ってきた。受付の女の子もインドネシア女子も、値段を言ったとたんに「まあ、欲しかったんならいいんじゃない?」と態度を変えた。「これはとても丈夫で燃えないんだよ!ライターある?見せてあげる!」と言ったのだが誰もライターを持っていなくて、インド男子に「それはすごい!仮にあんたの家が燃えてもこのトランプは残るんだね!よかったね!!」と言われた。

 

荷造りを済ませてからラウンジに降りると、今晩発つならビールを飲もうよ、と皆ラウンジに集まっていた。インドネシア女子が日本で桜を見てみたいと言っていたので3~4月頃に来るのが良いと教えた。インド男子は日本に行きたいのでビザを手配してくれと無理な頼みをしてきた。

スウェーデン男子が外から帰ってきたので「昼頃行くって聞いてたけど、雨にあたらなかった?」と聞いたら「そのつもりだったんだけど寝坊しちゃった。今夜のバスで発つよ」と言われた。男子は、これベトナムで一番おいしい料理だから、と言いながらキャベツとうずらの卵をカレー粉っぽいスパイスで炒めてレモンを搾ったような食べ物を無理やり食べさせてきた。昨日生春巻き食べたいって言ってたでしょ、と生春巻きもくれた。生春巻きは、店によって中身やソースが違うらしい。「生春巻きにはチリソースが一番合うと思うんだけど、数あるチリソースの中でもここのチリソースが一番おいしい」と言っていた。たしかにソースはおいしかったが、春巻き自体はビニールを食べているような変な食感だった。そのあとインドネシア女子と、ホステルの近くにある毎晩行列のできている屋台に並んでバインミーを買って食べた。初日に食べたバインミーと違い、ミョウガが入っていなくておいしかった。

スウェーデン男子から、「昨日調べたんだけど、君の住んでいる日本の北の方って林檎がたくさん採れるんでしょ?」と聞かれ、本州の北の方とは言ったが最北端と思われていたことに気づいた。インドネシア女子が東京までどのくらい?と聞いてきて「新幹線なら1時間ちょっとで、バスだと5時間」と言うと、「もしいつか日本に行くことがあれば連絡してもいい?」と言うのでもちろん!と言った。10ドルくらいで泊まれる場所はあるかと聞かれ、「10ドルはわからないけど20ドルなら絶対にある。あと2020年にオリンピックがあるから、さらに便利になるかも」と答えた。チェコ男子に郵便局のおじいさんを見せた。「このおじいさんのやっていることにはとても感心するけど、まだ手紙の翻訳を必要とする人たちがたくさんいるということも考えてしまうね」と言っていた。その通りだと思った。

インド男子とスロバキア女子がディナーに行くと言い、もしかしたらこれが最後になるかもしれないね、とハグしてくれた。

 

ビールを飲みながら、ラウンジのテレビで流れているチープなサスペンスドラマを見ていた。横たわった死体の頭から血がおでこから口元にかけて垂れているようなクオリティだった。隣のスウェーデン男子がDo you smoke?と聞いてきて、Noと言うと「いや吸うでしょ」とにやにやしながら言ってきた。「いや吸わないって」と返すと「またまた」「知ってるから」みたいなことを言ってくるのでちょっとイライラしてきて「いったい何の話?」と聞くと、iPhoneでweedと打って見せてきた。わざわざ日本語翻訳をしてくれていて、「大麻」と書かれていた。「海外では何度か見たことがあるけど、まだやったことない。日本国内では見たことすらない」と言うと「ヒップホップ好きなら絶対吸ってると思ったのに」「ヒップホップは聴き始めたばかりだって言ったじゃん」「日本は厳しいの?」「絶対手に入らないわけではないと思う。誰と付き合うかによると思うけど、私に直接の人脈はないな。友達に頼めばその人がさらに友達に頼んで~と何人か仲介すると思う」と言った。「スウェーデンも禁止されているけど50%くらいは持ってる」「そうなの!簡単に買えるの?」「うん。誰でも買える」「今持ってる?」「うん」「スウェーデンから持ってきたの?」「うん」「ベトナムは禁止されてないの?」「禁止のはずだけど」「スウェーデン出てきて何カ国目?」「タイとカンボジア行ったから3カ国目」「全部セーフだった?」「うん。でももしフィリピンに行くときはその前に処分するよ。殺されたくないし」「ねえ見たい!見せて!」「一緒にやる?」「まずは見たい!」「今行く?このビール飲んでから行く?」「ビール飲んでからにしようよ。ところでweedって他の呼び方ある?」「grassとか?一般的なのはマリワナ?あとはカナビス?」「カナビスってヒップホップじゃないけど歌の歌詞で覚えた」「たいていそんなものだよね」「ねえカナビスって何語?英語じゃないよね?」「たぶん、ラテン語」「古いんだ」「weedの歴史は人の歴史だよ」「それとてもいい話だね」というやり取りをした。

「ホステルの前で吸ってもいいと思うけど、まだ時間も早いし近所の人に見られない方がいいと思う」と言うので3階のベランダで見せてもらうことになった。ホステルの階段は、急勾配のほとんど螺旋階段で、登るだけで息が上がる。裸足で登りながら、今この人に好きと言ったらなんて言うかなと思った。

3階のベランダは蒸し暑く、温度低めのサウナだった。5cm四方のジップロックから葉っぱを取り出して、細かく千切る様を見ながら、英語でコミュニケーションをとっていると表現できることが日本語よりも少ないから、さっき一瞬あんな馬鹿らしいことを考えてしまったんだろうな、と思った。聞きたいことや言いたいことがあっても何て言ったらいいかわからなくてまあいいやと諦めたことも一度や二度ではない。思考が語彙に依存しているから、好き・嫌い・何も思わないの3パターンの感情しか生まれてこないんだ、と思った。同時に、感情なんて煮詰めてしまえば3パターンくらいなんじゃないか、それなら、豊富な語彙を用いて感情の機微に言葉を尽くすことの意味ってなんだろう、とも思った。複雑にすることは、誰のためにやるんだろう、と思った。

男子は千切った葉っぱをパイプに詰めて、ライターで火をつけた。火が上を向くので、指先が熱そうだった。火をつけてパイプをパスしてくれるのだが、吸うとすぐに消えた。「火を消さないように少しずつゆっくり吸って、肺にキープする。そうすると血液に吸収されて全身に回る」という説明を聞いて再度やってみると今度はむせた。その後何度か吸ってみるも、「コレダ!!」みたいな感覚にならない。「効いたらリラックスする?それともハイになる?」と聞くと「自分の場合は適度に吸えばリラックスするし、吸いすぎるとハイになる」と言った。

吊り橋の上の青年に魅かれることを「勘違い」と言い切れるほど、感情って確固としたものなんだろうか、という気持ちになってきて、男子に「世界のどこでもいいんだけど、またいつか会いたい」と言ってみたのだけど、ほとんど同時に男子が「あ~~めっちゃ効いてきた」と言ったので「まじ!どんなかんじ?」「I feel everything」「ほんと!私何も変わらないんだけど!everything ってつまりどんなかんじ?ラブアンドピース?もっと何か別の大きなもの!?」「あの、感覚が鋭くなるっていうか、今も君の声は聞こえてるけど何を言っているのかちゃんとわからない、みたいな」と言って、そこからしばらく何も言わずぼんやりとしていた。自分でパイプに火をつけてみようとしたけれど、ライターの火が熱すぎて男子のようにはできなかった。

 

ラウンジに降りると、スロバキア女子とインド男子が戻ってきていて、インドネシア女子がスロバキア語を習っており「ビールください、はスロバキア語でどう言うの?」と聞いていた。「~~~~ヴァだよ。……いやもっと唇を噛んでヴァッ!ってやるの。」その様子を見て、稲中の田中がヴァギナと言いまくるシーンを思い出してにやにやしてしまった。

インド男子が「何時の飛行機?」「0時」「どうやって行くの?」「エアポートバスかな」「時間わかる?」「わかんないけど30分置きにあったはず。21時に出れば大丈夫」「じゃ時間調べてあげる。そしたらギリギリまでここに居れるでしょ」そう言って調べてくれた。やさしい。「あんたの言うとおり、バスが30分おきにあるんだけど、見て、21時って入力すると、21:00、21:30と出るでしょ。でも21:15と入力すると、ほら21:15と21:45になる。これは信用しない方がいい」そのやりとりを見ていたチェコ男子が「まあ21時にここを出ればとりあえず大丈夫じゃない?」と言って落ち着いた。

 インド男子から「さっきスウェーデン男子と何してたの?」と聞かれ、「weedやってたんだけどやり方が悪いのかあんまり効かなかった。やったことある?」「持ってるんだ!俺もやりたい!」と言い出し、スウェーデン男子を誘ったが「もうやりたくない」と言われた。「そんなこと言わないでよ、だってぜんぜん効いてないんだよ」と言うと、次は煙草の葉っぱに混ぜようかとなり、昨日会った日本人バックパッカーが自分で巻くタイプの煙草を吸っていたよと教え、二人でもらいに行った。普通にいい人で、「一緒にやらない?」と聞くと「今はとにかく眠いからいいや。帰り気をつけてね」と言ってくれた。もう上まで登りたくないと言うのでホステルの外で吸うことになった。インド男子とチェコ男子はゴキブリの話をしていて、「地球上で一番ゴキブリが嫌いだ。蚊はまだ我慢できるが、ゴキブリは本当に我慢できない」「でもゴキブリは核の効かない唯一の生き物なんだろう」「そう。だからゴキブリはもともと地球で生まれた生き物ではなくて、宇宙からきたという説もある」「実はゴキブリに支配されているのかもしれないよね」「人間よりもゴキブリの方が暮らしやすいんだから、ほんとにその可能性あるよね」その会話でイージーライダーを思い出さずにいられなかった。

スウェーデン男子は「自分ももうすぐ発つからハイにはなりたくない。3人で吸ってよね」とぐずぐず言いながら煙草の葉っぱに混ぜて巻いていた。結局4人で回しながら吸っていると、インドとチェコは「これかなり物がいいね」と言っていた。スウェーデン男子は「その通り。でも彼女には効かないみたい」とこっちを指すと、インド男子が「あんたビールはたくさん飲むしマリワナは効かないし、きっと核も効かないんだろうね」と言った。

 

インドネシア女子とスロバキア女子がカラオケの話をしていると、ホステルの受付の女の子が「私もカラオケ好き・・・」と言い「ほんと!じゃあこれから行こうよ!仕事何時まで?」と盛り上がっていて、私も一緒にカラオケ行きたいし、何より帰りたくなさすぎてグダグダしていた。チェコ男子が「そろそろ行かないとまずいんじゃない」と言い、「帰ることを考えると悲しい気持ちになる」と答えたら、インド男子が「嫌ならここに住むしかない」と言い、インドネシア女子が「いいね、もうこのホステルを出て、みんなでアパートを借りて、それぞれ英語の先生でもしながらみんなで一緒に暮らすの」と言ってきて、そんなことができたらどんなに幸せなんだろうかと思った。最後は一人ずつハグしてくれた。スロバキア女子が「スロバキアでは別れ際にはキスするんだけど、日本人はしないと思うからしないでおくね」と言った。それを聞いたインド男子が「じゃあその分を俺にしてよ!」と言ってみんな笑った。

霧雨の中歩き始めたらインド男子とチェコ男子が追いかけてきて「フェイスブック聞くの忘れた!!」と言われ、急いで交換した。「スウェーデン男子とガールズにも教えておくから!引き留めてごめん、早く行かないとだよね!」と言われ、駆け足でバス停に向かった。21:20くらいだった。

 

停車中のバスに乗ると、運転手が客席の後ろの方でごはんを食べていた。何時に出発するのか聞くと5分後だと言った。バスには他にアジア系のカップルが乗ってきた。10分経っても発車せず、運転手は運転席でセルフカメラを使いながら電話をしていた。もう一度何時に出るのか腕時計を指さしながら聞くと「5分後って言ってるだろ!」と返ってきた。腹が立ったので両手を広げて「ハァ?」とやったら「ああもう、今出るから」となだめてきた。バスの中で、出国時に必要になりそうな「一時入国」の英語表現を調べたらOne o'clock immigration と出てきたのでもう何も信用しないことにした。雨が強く降っていた。