2018年1月23日 サウナに行き始めた話

サウナに行きたくて銭湯に行っている。サウナというのは、2000年前にフィンランド人が室内で太陽を楽しむために作ったものらしい。寒さは人を賢くするのかもしれない。

清潔面において、潔癖症には到底遠いはずが、なぜか温泉や銭湯は昔から苦手だった。でもサウナの良さを聞いてから、行ってみる気になった。銭湯なんて性病や水虫の温床だろと思っていたが、今はサウナで性病や水虫がうつっても、それも運命だろうと受け入れる心持ちだ。この経験は、30年間嫌いだったものを、これから好きになる可能性があることを示唆するには十分だ。知らないことばかりだ。

今日も銭湯に行ってきた。今週は労働楽勝だろと思っていたらぜんぜん楽勝じゃないことに昨日気づいたのと、大寒波がきているため、これは室内で太陽を楽しむしかないと思ったからだ。

前回行ったときはサウナの温度計が80度前後だったのが、今日は100度の位置に針があった。

サウナから出てお湯に浸かっていたら、同じくお湯の中にいた70代手前くらいのおばあさんから「サウナに何回入ったの?」と声をかけられた。「3回です」と答えると、「あたしはここ(の銭湯)に20年以上通っているけれど一度もサウナに入ったことはない」となぜか誇らしげに語り始め、最終的に自分はバツ2なんだとか言い始めた。こちらのことも教えた方がいいかなと思ったので、近くに勤めていること、痩せたいと長らく思っているがなかなか叶わないこと、ヨガに通っていることを話した。おばあさんはその3つの中で当然ヨガの話に興味をもち、どんなアーサナ(ポーズ)がいいのか聞きたがり、こちらの言うままに銭湯の床に全裸で開脚し始めるなどの行動に至った。おばあさんの全裸開脚って、世界見たくないものランキングがあったらどの辺の位置かなと思った。ここのサウナは、男湯側と熱源をシェアしている(たしかに前回すごく近くで男性の声が聞こえたのはそういう理由らしい)ため、片方にだけ人がいればそこの温度は上がり、両方に人がいれば温度は下がるらしい。囚人のジレンマみたいな状態だ。サウナに入ったことないという彼女は、サウナの仕組みにとても詳しかった。

おばあさんは、色の白い人は汗をかきにくいのでお前にはサウナも運動も意味がない、という主旨のことを言い捨てて浴室から出ていった。

最後に駄目押しでもう一度サウナに入ったら、めちゃくちゃ心臓がギュっとなって、暑いための汗ではなく、サウナの中なのに冷や汗が出てきて危険を感じたので飛び出した。

脱衣所では別なおばあさんから、北辰(寿司屋)のタイムセールのパック寿司が一番コスパいいという話をされた。その人曰く、漁師の男は赤身の魚を好むらしい。

 

ツイッターをやめたらツイートしたくて仕方がなくて発狂するかと思ったが、意外とそんなことはなかった。人生に、やめられないものは何もないのかもしれない。やってたら楽しいものばかりかもしれない。知らない喜びや楽しみが、まだまだたくさんあるのかもしれない。

2017年12月17日 広島→仙台

路面電車とフェリーに乗り放題の一日乗車券を買った。乗車券はスクラッチになっており、該当する年月日を十円玉で削って使用する。「(削る日付を)間違うたらもう一枚買ってもらうけえ気ぃつけや」と車掌さんに言われた。ホテル最寄り駅から40分ちょっと路面電車に揺られる。並走する車を追い越しながら、気づけば電車の線路を走っていた。音も電車のようなガタンゴトンという音に変わっていた。スピードも速い。朝から最高の気分だった。いつか死んだときは、こんなかんじでお願いしたいと思った。

気づけば誰もいない路面電車の駅のベンチに座っていて、しばらくしてやってきた路面電車に乗り込む。ちらほらと人が乗っているが顔は見えない。仲の良かった人や昔の思い出にひたりながら、どこへ向かうかわからない路面電車に揺られている。各駅停車でときどき人が乗ってくる。終点に着くとフェリーが待っており、誘導されるままに他の乗客と一緒に列に並ぶ。会話ない。最初どんな停留所から乗ってきたのか、ここはどこなのか考えても一つもわからない。路面電車の車内で浸っていた思い出も、もう思い出せない。フェリーが向こう岸に着く頃には、自分が誰であったかも忘れている。やがてくる来世に、思い出は必要ない。

そういうかんじがいいなと思った。同行者は皆眠っていた。終点で降りると、すぐにフェリー乗り場が待っている。郵便局のトラックも一緒に積まれている。最初はみんなデッキにいたが、同行のおじさんが「寒かけん中入っとるよ」と言い残して皆デッキから去った。船が水面を進むときに作る泡の様子を見て過ごした。

15分もしないうちに宮島に着くと、鹿が山ほどいた。奈良の鹿のようにガツガツせず、かといってそっけなくもなく「どちらから?」と言うように鼻を近づけてきたりする。なんとお触りもOKだ。こういう毛質の犬もいるなという手触りだった。厳島神社に参拝し、海の中に設けられた鳥居を眺めたりした。よく写真で見るような、海のど真ん中に建てられた鳥居!というかんじではなく、意外と陸から近い。干満の関係上遊覧船は次が最終便ですと船着場で16歳くらいの女の子が大きな声でアナウンスしていた。昼食に牡蠣フライカレーを注文すると「辛いですよ?」と言われたが、出てきたカレーはボンカレーの中辛レベルの辛さだった。牡蠣フライはおいしかった。

帰りの船もデッキには自分しかいなかった。遊覧船ではなく、交通機関としての余裕がそこにはあった。移動は遊びではない。船窓からの景色には、誰も興味がないのかもしれなかった。

小学生の頃、「つるにのって」という本が大好きだった。小学生のともこが夏休みに一人で広島を訪れる。そこで禎子という同い年くらいの女の子に出会う。ともこと禎子は意気投合するが、だんだん禎子の様子がおかしくなっていく。禎子は太平洋戦争で被爆し、白血病を患いいつか退院できることを願いながら折り紙で鶴を折り続けたが、結局退院することができないまま亡くなった女の子だった。その後、禎子の同級生の有志で大きな折り鶴を掲げた女の子の像が平和記念公園に建設された。それを知ったともこは女の子の像に向かって手を振り、広島の街をあとにする。みたいな話だ。そういうわけで、原爆の子の像の前に立つと、つるにのってを読んだ頃の気持ちが蘇るようだった。ちなみに原爆資料館には、禎子さん(実在した)が薬の包み紙やらで折った小さな折り鶴がガラスケースに展示されている。

 

帰りの広島空港で盛大に鼻血を出した。こんなに鼻血を出したのは、引っ越しのトラックから落ちてコンクリートに後頭部を強打したとき以来だった。旅行とはいえ、初めて出席した結婚式、ナイフとフォークしか使わせてもらえない膨大なコース料理、知らない人との社交、巨大なストレスからくる流血であることは確かだった。

2017年12月16日 仙台→広島

5時に起きる予定だったが、5:40になっても布団から出られなかった。もう陸路で向かうことを考え始める。でもそんなお金はない。一緒に行く友人から、寝坊してしまったので何もかも厭になってしまった、という電話。予定の電車を変え、離陸25分前に空港に着くという挑発的なプランに変更した。
前日の職場の昼休みに、銀行で新札を手に入れるというミッションがあったのだが、やよい軒でおかわりをしているうちに昼休みが終わってしまい、ミッションは失敗に終わった。けれども友人がセブン銀行の口座を持っているので、コンビニのATMで新札を引き出してもらうことにした。
なんとか2人で仙台空港に到着。北海道は天気が荒れているというアナウンス。チケットカウンターにて、隣のおじさんが、「千歳に着陸できない場合、そのまま仙台空港に戻るのですがご了承いただけますか?」と言われていた。「万が一千歳から戻ってきた場合、仙台から那覇行きに乗ることはできますか?」とさらに聞いていた。一日で国の端から端まで移動しなければならない人もいるのだ。もしくは西村京太郎も真っ青の飛行機時刻表トリックか。
笹かまの禁断症状が出てきたので、キオスクで大漁旗を購入。市内で売っている紙の包み紙に入ったものではなく、真空パックになっていた。賞味期限を伸ばすためなら、おいしさを切り捨てるという製造者の覚悟が見える。空港の食べ物は、保存期間が長いほど強い。
ANAに乗ると座席に置いてある「翼の王国」という雑誌が大好きだ。これから旅に出る(帰る人もいるが)人にすら、旅欲を刺激する罪な雑誌だと思う。中の写真も文章もとても良い。

広島の人々というのは、あんまり人懐っこくないけれど、話しかけるとなかなかユーモラスに返してくれる。路面電車に乗車する際、なかなか強面の駅員さんに、切符はいつ買うのか尋ねると「降りるときに運賃を払うよ。俺たちはケチだからぴったり払わないとおつりはあげないんだ。おつりがほしかったら先に両替してね(車内にも両替機はあるよ)」と仁義なき戦いでしかろくに知らない広島弁で答えてくれた。男性も女性もナチュラルに「〜じゃけぇ」と言う。

その後は結婚式。こぢんまりしてなかなか素敵だった。ガラス張りだが木に囲まれていて、開放感とプライバシーが両立していた。「牧師です」と自己紹介をした牧師さんが、聖書を引用しながら愛について説くのを聞きながら、そんなに最強かな?などと思ったが、「愛」の部分を「シャブ」に変換するとすんなり飲み込むことができ、それはあまりに深く心に突き刺さった。信仰をもたない人間には、愛よりシャブが効くかもしれない?
披露宴にてビールを飲んでいたら、注ぎにくるのが面倒になったのか、私の前にだけ瓶ごと置かれてしまった。あと普段は絶対口にしないようなステーキも、赤ワインと一緒だと残さず食べられた。
その後二次会。見知らぬおじいさんたちがとにかくうれしそうだったのがよかった。親類が少ないので、たくさんの老人に囲まれる機会というのはほぼない。老人というのは、話を聞かず店員に暴言を吐き散らかす邪悪な存在だと思っていたが、ろくに生まれた広島を出ることもなく、真面目に生きて、孫のちょっと遅めな結婚を喜ぶような温かな老人もいるのだ。

2017年11月12日 サーカス小屋の中は重力が軽い

ヨガをやっていると、バランスをとるポーズで、稀にバッチリと重心を捉えることがある。こんな体勢疲れるでしょ、絶対片足じゃ無理でしょ、と思うようなポージングでも、重心が揃うと横たわるくらいに安定する。まわりの空気までピシッとしたり、音もあまり聞こえなくなったりすると、時間の静止を感じる。まあ少しでもずれると簡単によろけてしまうので、そこまでうまくできることは少ない。

 

今日はサーカスに行ってきた。

「住む街にサーカスがやってくる」それだけで華やかな気持ちになれる。観に行くのは4年ぶりだった。前回は、珍しいとされる白いトラが目玉のサーカスで、すごいはすごいのだけど、もしも客の入りが悪かったらは餌を減らされたりしないだろうか、本当はアフリカに家族がいるのに無理やりサーカスで働かされているのではないだろうか、と考えてしまい、なんだかかわいそうになってしまった。鞭を鳴らす人間とセットなのもちょっとこわかった。その点、今回のポップサーカスは、HPを見た限り動物は連れていなさそうでとても楽しみだった。

お客さんは3分の2くらいで、サイド側だがけっこう前の方だった。2匹のピエロが客いじりを始め、客の持っているポップコーンをつまみ食いしたり、客のハゲ頭を叩いたりしていた。

箱に詰めた美女を串刺しにするマジック、全身で大量のフラフープを回しまくる女性、回る巨大な車輪の上でジャグリング・なわとび。肉体の限界。天井から吊るされた輪っかに足だけで絡みつき、軽やかに重力を飛び越える。こんなふうに自由になれたらと思う。たぶんヨガで重心を捉えられたときのもっと上位のバランスを、自分自身に対する感覚だけでなく、ブランコから飛び移ってくる他者やモノの重心まで見抜くことをやっていて、それはもう、この星の秘密を知っていることになるんじゃないのかと思った。 

2時間のショーは10時間くらいに感じた。椅子に腰掛けてポップコーンを喰らっていただけなのにぐったりと疲れた。最後に演者が全員出てフィナーレ。

拍手のしすぎで手のひらがヒリヒリだ。

2017年10月4日 仙台市民東京へ行く

入社して3ヶ月経ったのだが、有給休暇の権利が入社半年以降しか与えられないので、欠勤の申請をして休みをとった。申請前、休みが取れなかった場合に備え、知人に「親類を装って、親族に不幸があったと迫真の演技で会社に電話をかけてほしい」と会社の電話番号を教えていたりしたのだが、あっさり通った。

 

欠勤する人間を、誰も止めることはできない。

 

東京に住む友人とランチをする約束があった。燻製を教えてくれた人だ。指定された会社に向かうと、駅直結の外国の高級ホテルみたいだった。今からここから出てくる人と会話をする自分がぜんぜん想像できなかった。警備員がチラチラ見てくるので、とりあえず腰に巻いていたデニムジャケットをほどいた。ロビーのソファに座って待っていると、1メートル四方の立ち飲み屋くらいの高さのテーブル?に、スーツを来たおじさんたちが群がり始め、ひそひそ声で話していた。けっこう小さいテーブルなのに、6人くらい集まっていて、ギュウギュウに見えるので不気味だった。お互いの顔もけっこう近いんじゃないのかな。おじさんを引き寄せる匂いとかが出ているのかもしれない。そんなビジネスピーポーたちが去ると、警備員と受付嬢と自分だけになり、そのテーブルを確認してみたのだが、特に何も変わったところのないテーブルだった。おじさんにしか感知できないいい音やいい匂いを発しているのかもしれなかった。

友人と寿司を食べながら、燻製にしたらうまい食材の情報交換や、ぬか漬け、手作り味噌の話で盛り上がった。スモークサーモンの温度調整のために熱源と食材の距離をとる装置をダンボールで自作したそうだ。普段はお弁当を作っていると言っていて、私も作っているので、お弁当の作り置きおかず等かなり所帯じみた会合になった。会社に戻りながら、そういえばヨガを始めたよと言ったらかなり関心を示していた。

 

次に東京で無職をしている方をキャッチボールに誘った。けっこうキャッチボールには自信があるのだけど、私の方がだいぶ下手だった。極度に湾曲したベンチは人間が座るのはもちろん、コーヒーカップを置くのにさえ適さない。ホームレスをここで寝させないための工夫だ。「ケチだ」「さもしい」「知恵の無駄遣い」等と二人でベンチを罵りながら仙台駅で買ってきたワンカップと笹かまをかじった。家のテレビが壊れてしまったが無職なので何もできないと言っていた。無職は平日の昼間に業者の立ち会いをするという重要任務に就くことができるし、直す業者のおじさんに「がんばれ♡がんばれ♡」とエールを送ることもできますよ、と言った。終わってから気づいたが、その公園はキャッチボール禁止と書かれていた。神田で別れてお台場へ向かった。改札で女子高校生に思いっきり舌打ちをされたが、自分の何が悪かったのかわからなかった。

 

東京テレポート駅に、線路をつたって到着するのは不思議な気分だった。ベル・アンド・セバスチャンに会うのが東京に来た真の目的で、初めて生で見たフジテレビの丸い球体の中身について考える暇はない。キャッチボールで汗びしょびしょなので、物販でTシャツを買って着替えた。古いレコードのTシャツを着ている人も何人か見かけ、ファンが観に来ているのは想定内なのだけど、それでも、同じ目的で別々の人が一箇所に集うというのはとてもすごいことのような気がした。これがスポーツ観戦だったらこうは思わないだろう。世界一平和な空間だと思った。

古い曲から新曲まで、かなりバランスのとれたセットリストだった。外国の地で言葉も通じてるかどうかわからない人たちの前で演奏してお金をもらうというのは、めちゃくちゃにかっこいい。渋谷から東京テレポート駅までの素人が撮影した映像にちょっと泣きそうになったりした。Little Lou, Ugly Jack, Prophet Johnをまさか聞けるとは思っていなくて(ノラ・ジョーンズは来ていないように見えたので)、しかも映像がルー・リードジャック・ケルアック(たぶん)、ジョン・レノンで、この曲にそんな意味があったのかとただただ唖然としたり、「悲しい歌は明るく歌われなければならない。乗り越えるためなのだから。」というマードック哲学に最高になった。客席のリクエストを受け付けると言ったので

「Nobody's Empire!!!」

と世界一でかい声で叫んだつもりだったが、ステージまでは届かなかった。この世界は声のでかい人間が強い。声がでかくなければ、誰にも聞いてもらえない。声のでかくない人間は存在しないのと同じだ。けれども、今ギターを練習中のJudy And The Dream of Horsesで〆だったので、これはもうマードック先生に直接ギターを教わったと言っても差し支えないのではないか?早く弾けるようになりたい。

一緒にコンサートを観た人と食べたサラダがおいしかった。「このドレッシングはいろいろな解釈ができる」という言葉通り、すべての味がするようであり、なんの味もしないようでもあった。知らないお酒しか並んでいないバーに連れて行ってもらい、やはりそこでも腰に巻いたデニムジャケットをほどくことになった。スニーカーで入ってよかったんだろうか?

浅草に泊まって朝の新幹線で仙台に帰った。けっこう寝坊したのでダッシュで向かったら10分前くらいに着いた。はやぶさは久しぶりに乗ったが、大宮から仙台までノンストップだし、終点が盛岡なので気を抜くことはできなかった。仕事に行きたくなさすぎて、せっかく買った駅弁を半分も食べられなかった。駅から職場まで、つまらない景色のはずが、お台場で素人撮影映像とベルセバを並走した感動が蘇り、いつもの灰色の街に色がついて見えた。けれども、これからの楽しみは何もなかった。あとは悲しい歌を明るく歌っていくだけだ。

2017年9月3日 ブログを書こう

週に一回はブログを書こうと決めていたはずが、なかなかそうはいかない。

書くことがない。

書けるっちゃ書けるが、こんなこと書いてもなあ、みたいな気持ちになる。こんなこと書いてもなあ、みたいなことばかり結局は書いているし、書いたら書いたで、よっしゃ書いたぜ!となれるんだけど、それでもなあ、となってしまい、週に一度書くという目標すら達成できていない。

 

本当に書くことがないので最近読んで面白かった本のことを書く。

澁澤龍彦『幸福は永遠に女だけのものだ』というエッセイ集に入っている「自分の死を自分の手に」という話。「安楽死保険」を売りにこられたというエピソード。安楽死保険とはというと、毎月お金を積み立てて、自分が助かる見込みのない病気や自殺したくなったとき、できるだけ痛みの少ない手段で殺してくれるという保険だそうだ。

「それで、もしわたしが加入するとなれば、どういう利益があるのです?」とわたしはぼんやり訊いた。すると、

「まず本人の精神が、がらりと一変いたしますな」と男は胸を張って答えた。「それはもう、見違えるようになりますよ。なにしろ毎月、現金を積み立てて、自分の死を少しずつ買うのですからな。だんだん、死が目の前にはっきり見えるようになります。だんだん、自分の死の価値が高まって行くのが分ります。

 

「手前どもの安楽死保険は、かかる世の中に真の精神の価値を確立すべく、ひそかに名乗りをあげた革命的秘密結社です。それは一つの道徳運動でもありまして、"自分の死を自分の手に"というスローガンを掲げております。人間に残された最後の貴重な財産は、じつは生命ではなく死なのです。

というやり取りが行われる。星新一の「殺し屋ですのよ」みたいなオチがついているわけでもなく、ただ追い返して終わるのだが、年金よりはこっちのがいいなあなんて考えながら読んでいた。これって会社のスローガンには(おそらく)納得しつつ、癌の闘病中にも『高丘親王航海記』を書いてそのまま亡くなった澁澤龍彦のような人に入ってもらわないと儲からない保険だし、売り込む相手として澁澤龍彦というチョイスはきっと一流のセールスマンだな、という気持ちになった。

自分だったらすぐに殺してくれというか、死の価値の高まりににまにましながら生活を送るどころか月々の積み立て金の支払いにヒイヒイ言うだけになってしまう気がする。支払った分の年金を定年と同時に一括払い戻しか安楽死を買うか、そういう選択肢が、あと30年後にはできているといいなあ。

 

2017年8月24日 体の輪郭が空気に溶けていく

中村天風の生きる手本』(知的生きかた文庫)を読んでみた。中村天風氏の講演を宇野千代氏がまとめたものだ。

読みやすい。たしかに読みやすいのだが、「じゃあどうすればいいの?」という初歩的な質問がすぐに浮かんでくること、「人間というのは~」みたいな言い方に対し「主語でかくない!?」と思ったりして、なかなか内容を飲み込むことができなかったというのが正直なところ。

 

しかし、この本にこんなエピソードが登場する。

結核が治らない天風は死に場所として故郷を選び、エジプト経由で帰国をはかる。そこで出会ったインド人が、そんな天風氏を見かね「着いてこい」と言い、天風氏をヒマラヤの寺へ連れて帰る。しかし二ヶ月経ってもインド人から何も言われないので、しびれを切らした天風氏は「いつになったら治し方を教えてもらえるのか」と尋ねる。

するとインド人は「お前に教わる準備ができていないから待っているのだ。こちらの準備はできている」と言い、天風氏は「教わる準備ならできています」と応戦。

次にインド人は水いっぱいのコップを指し、氏に「ここに湯を注げ」と要求する。天風氏は「そんなことをしたら湯も水もコップから溢れるではありませんか」と拒否する。

お前の頭の中はな、私がどんないいことを言って見ても、そいつをみんな、こぼしちまう。さっきの、水いっぱい入っているコップと同じような、そういう状態だと見ているんだ。いつになったら、この水をあけて来るかな。水をあけて来さえすれば、そのあとで湯を注ぎ込んでやれば、湯がいっぱいになるんだがな、と思っているんだが、いっこう、水をあけて来ない。お前の頭の中には、いままでの役にも立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくら俺が尊いことを言ってみても、それをお前は無条件に受け取れるか。受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、俺はしないよ。

 

なるほどたぶんこの状態なのかもしれない。が、どうやって頭を空っぽにすればいいんだろうね?

 

ところで今日のヨガのシャバ・アーサナが大変気持ちよかった。先生が、「体の輪郭が空気に溶けて、曖昧になっていきます」と言っていたのもよかった。

 

授業中、眠さに負けず、頑張ってノートをとっている。綺麗に字を書いている。先生の話も聞いている。

 自分ではできているつもりでいる。

 しかし授業が終わってノートを見返すと、一文字もまともに書けていない。そもそも書いたはずの文字数より明らかに少ない。そして聞いていたはずの授業の内容をカケラも覚えていない。ただとても、頭がスッキリとしている。ノートをとっていたときの記憶はある。でもあれだけ懸命に眠気を吹き飛ばしながら聞いた授業の内容はまったく覚えていない。たしかに聞いていたのに。

 

そういう経験はないだろうか?

 このノートをとっているときの状況、今日それに近いことをシャバ・アーサナの時間にできたような気がした。

ヨガ、もうちょっとがんばってみたい。