2017年5月25日統一鉄道乗車(サイゴン→ニャチャン)
朝は鶏の鳴き声で起きた。ホステルの女性が朝ごはんを作ってくれた。
フライドエッグ(多めの油で目玉焼きを両面しっかり焼く)をバターを塗った食パンに挟んでケチャップをかけただけのシンプルなものだが、これがものすごくおいしい。「ベトナムはパンがおいしい」と聞いていたが、こんなどうでもいいレベルの食べ物にまでパンのおいしさが浸透しているのかと驚く。
22時の鉄道でダナンに向かう予定だ。今回来た目的がそれだった。夜間の治安の想像ができないので、できるだけサイゴン駅の近くにいるべきだと考え、駅に近いホステルに移動する。近くまで移動したつもりだったが、もともと滞在したホステルから道2本分くらいしか近くならなかった。
新しいホステルで、インドネシア人の女子に誘われ、スウェーデン人男子と3人でランチを食べに市場へ出た。今後ここに滞在することになる。ホーチミンの昼は暑すぎて、何も考えられない。2人が何を喋っているのかもほとんどわからず、ぼーっとしていた。スウェーデン男子が日本のラーメンについてしきりに質問してきた。帰り道、インドネシア女子が「昔だけどね」と念を押しながら元ジャニオタでありNEWSのコンサートに行ったことがあると話してきた。手越君が好きだったらしい。
夕方、ホステルのベランダで一人ビールを飲んでいたら、黒人の男子がタバコを吸いにきた。カナダ出身だと言った。大学を中退して自分探しをしているとも言った。19歳だった。彼と宮崎駿とグサヴィエ・ドランの話をした。宮崎駿作品ではハウルの動く城が傑作だと言っていた。自分もハウルの動く城は宮崎作品で一番好きな作品だが日本でそのように言う人はわりと少ない、と言うとかなり驚いていた。
サイゴン→ダナンへの切符は日本で予約してきた。ベトナム語のみのホームページをGoogle翻訳を使いながら解読したのでずっと不安だった。ホステルの受付の女の子に予約メールを見せて、これで予約できてるのか聞いてみると、たぶん大丈夫、とのこと。サイゴン駅は近いから、21時に出れば十分だと教えてくれた。
荷造りをしてシャワーを浴び、ロビーでまたビールを飲んでいたら、スウェーデンの男子が隣に来た。これからダナンに行くので髪の毛を早く乾かしたい、と言うと、ちょっと触ってみてもいい?と言うので今日だけ無料で触らせてあげる、と冗談を言ってみたが、特に何も言わず、不思議そうにしばらく髪を触っていた。
21時にサイゴン駅へと向かう。ホステルの女の子がGrabというアプリを教えてくれた。今いる場所と目的地を入力すると、その場所にタクシーやバイクタクシーを呼べて、しかも呼ぶ時点で料金も表示される。値段交渉をする必要がない(そもそも相場を知らない)し、何より目的地を先にタクシー側が知っていてくれるのでありがたい。女の子から「スーツケース一つならバイクに積めるよ」とバイクタクシーを勧められ、バイクタクシーに乗った。夜風が気持ちよかった。
10分ほどでサイゴン駅に着き、インフォメーションのような場所で女性に予約メールを見せると、険しい顔で首を振られた。予約はできていないし、この鉄道はすでに満席だと言う。スマフォの予約画面を見せるとまた首を振られ、8両目の19番で取ってある!と言うと、「あなたはこの人ですか?」と紙に名前を書いて見せてくる。もちろん自分の名前ではなかった。彼女は8両目の19番はこの名前の人だと言う。「そんなはずはない。クレジットカードで決済も済んでいる。もしその席がないなら他の時間の鉄道を取ってくれ」と言う。女性は眉をしかめて肩をあげた。一人のベトナム人男性が声を掛けてくれた。「インターネットから予約をしたはずなのにできていなくて、しかも満席だ。ダナンに行きたい」と言うと、何か言いたそうだったが、「英語はわからない。ごめんなさい」と言って申し訳なさそうに立ち去って行った。
女性にしつこく頼んでいると、チケットカウンターのような場所を指差されたのでそっちに行った。恰幅の良いおばちゃんに「ダナンまでのチケットをください」と言うと、もう満席だと言う。「もう明日の宿をダナンにとってある!あの人があなたに話しかけろって言ったんだ!なんとかして!」を繰り返す。いつの間にか、周りにベトナム人が集まってきて、このやり取りを少し遠巻きに見ていた。恥ずかしさも何もなく、頭の中ではさっきのホステルにどんな顔で戻ろうか。仮に明日の朝に出発できたら何時に着くのかと考えながらおばちゃんに「なんとかしてください!」を繰り返していた。おばちゃんはさっきのインフォメーションを指差して、向こうで聞いてくれ、というようなことをベトナム語で言う。「もうあの人は私と話すのが嫌だって」と言うと、何か返ってきたが、もう誰も英語を話してくれなかった。サイゴン駅の人だかりの中で荷物が重かった。濡れた髪の毛で肩が冷たかった。電車で寝るために、すでにパジャマを着ていた。けっこう泣きそうだった。
一人のベトナム人が「お困りですか?」と人だかりをかき分けて英語で声をかけてくれた。「チケットが取れない。ダナンに行きたい」と言うとベトナム語でおばちゃんに話してくれた。男性は「このおばちゃんはニャチャン(ホーチミンとダナンの間)までのチケットなら取れると言っている。この電車がニャチャンに着く時の乗り継ぎ時間は30分しかない。電車が遅れたらそれで終わりだから、ニャチャンで再度チケットを買うのがいい。さらに、僕はこれからニャチャンに行くから、そこでチケットを手配できるかもしれない。」そこで初めておばちゃんが何を言っていたのかわかった。たしかに「ニャチャンならいける」と言っていた。それを「ダナンだって言ってるでしょ!」と返していた。男性に促されるままにニャチャン行きのチケットを買った。日本で予約したのは、ソフトベッド(2段ベッドの一つ)という最も快適な場所だったが、二番目に快適らしいハードベッド(3段ベッドの一つ)に一つ空きがあった。発車は22:45だった。チケットを握りしめたらほっとして涙腺がうるうるしてしまった。お礼を言うと、男性は「まだ発車まで時間があるのでコーヒーでも飲もう」と駅にあるカフェに連れて行ってくれた。
ミルクはいれる?と言われ、いらない、と答えたらグラスから底1cmくらいしかないおそろしく濃いベトナムコーヒーが出てきた。ミルクありにすればよかった。「どこから来た?旅行?」というお決まりの話から始まり、日本から来た、と答えたら「なんだ、あのおばちゃんは“電車に乗り遅れた中国人が騒いでいる”
とみんなに言っていたよ」と返ってきた。電車に乗り遅れたのではなく予約自体ができなかったのだ、と訂正した。彼はベトナム人で、韓国の博士課程を卒業してからホーチミンの韓国系企業でエンジニアとして働いており、出張でよくニャチャンに行くそうだ。「ベトナムでは出張は飛行機が主流だが、僕は鉄道の中で寝るのが好きだ」と言った。話のわかる人だった。「僕もベッドを取りたかったけど、シートしか空いてなかった。君がチケットを取るときにちょうどキャンセルが出たらしい。ラッキーだったね」とも言った。さらに「友だちが日本に13年くらい住んでいたから電話してあげるよ」と言って電話をかけ始め、かわったら「あ、どーもこんばんは!」と流暢な日本語が聞こえた。山梨大学に通っていたそうだ。「山梨大…?」と聞くと「あ、一応国立大学なんっすよww」と言った。SASUKEを完全制覇した若い男子はどこの大学だったっけと思ったが、彼はたしか高知大学だ。山梨に関する知識はまるでなかった。故郷より南にあることだけは確かだった。
「何か困ったことがあればズーさん(助けてくれた人)か自分に電話していいよ、きっと力になる」と言われ、お礼を言って電話を切った。ズーさんが彼の電話番号と、ズーさんのフェイスブックを教えてくれた。
発車10分前にズーさんと一緒にホームへ入った。チケットを売ってくれたおばちゃんがホームをうろうろし、こちらを見ると笑いかけてきた。ズーさんがおばちゃんに何かベトナム語で話すとワッハッハと大声で笑った。「中国人じゃなくて日本人だと言ったよ」とズーさんに言われた。「鉄道に乗れるなら何人だっていいや」と言うと、また通訳してくれたのか、おばちゃんがさらに大声で笑いながら肩をバンバン叩いて髪の毛をわしゃわしゃしてきた。ズーさんに「明日の朝ニャチャンで会いましょう」と言って鉄道に乗った。3段ベッドが2台ある6人のコンパートメントは、他にはおじいさんとおばあさんばかりで、3段ベッドの一番上は、天井との間がiPhone3つ半の高さしかなかった。昔見学に行った少年院を思い出した(もちろん少年院の方がずっと快適そうではあった)。他の乗客が荷物を持ち上げるのを手伝ってくれ、ベッドに入ると、インビクタスという映画で大統領が投獄されていた監獄に初めて赴いたマット・デイモンの表情になった。電車はゆっくり動きだし、背中から誰かの鼓動が伝わってくるような心地よさがあったが、スピードが出てくると、縦揺れ・横揺れ、乗り物に弱い人間にはかなりオススメの状態になった。
2017年5月24日仁川空港→タンソンニャット空港→ホーチミン市内
2017年5月24日仙台空港→仁川空港
飛行機は隣が空席でラッキーだった。とにかく寝たかったのだが、3月で退職して電車の長距離通勤から解放されてから、ちょっとした移動に便利なサイズの小さい睡眠を摂る術を、体は忘れてしまっていた。それはいいことでもある。労働の記憶はいらない。
最高の夏について
数年前、「最高の夏」を連呼していた時期がある。オンラインでもオフラインでも毎日発していた。
「夏」のつく名前に生まれたかったと思ったし、死因の第一希望は熱中症だった。
どんな問いの答えも最高の夏に思えた。
最高の夏を求めて海に行った。深夜にキャッチボールをした。公園でスケートボードの練習をしたが、飽きてすぐにビールを飲んだ。ビアガーデンの噴水に落ちてずぶ濡れになり、そのまま激安の殿堂でTシャツを買って着替えた。川で花火をした。火薬が少ないのか、花火はすぐに消えた。
楽しい思い出はそれなりにできたが、それが最高の夏だったのかどうかはわからない。欲を言えば、もっと最高の夏があると信じたい気持ちもある。見たことないものを欲しているとき、突然目の前に現れても、それが欲していたものかどうかというのはわかるものなのか?
プランターの枝豆は現在8cm。
ブログは書いた方がいい
フェイスブックに毎日日記を投稿している同級生がいる。
大学の博士課程に属している彼の日記は、写真もなく、その日食べたもの、気分、天気から始まり、大学での研究や趣味の読書について、ひたすら書いている。小学校の頃の同級生で、そもそもあまりよく知らない人なので、はっきり言って面白くもなんともない。
けれども、高そうな食事や着飾った人々、生まれたての赤ん坊などの写真が延々と流れるフェイスブックで、彼の日記は異彩を放っており、ログインする度つい目を通してしまう。
彼によると、元々はmixiで始めたもので、日によって長短はあれど、それは日課としてもう10年続けているんだそう。以前アメリカの大学院に留学していた時も、やはり続けていたらしい。
10年欠かさずに毎日続けると、3650日くらいになる。うるう年も二度通り過ぎたはずだ。3650回の個人の日記が、このインターネットの海の一角に積まれていると思うと、途方もない気持ちになる。
10年毎日続けられたら、もうそれは日記のプロだ。
これから定期的に日記を更新する気持ちがある。それはプロを目指すほどの覚悟ではないけれど、続けた先に少しでも途方のなさがあったらいい。