2018年10月2日 先月読んだ本

5日 椹木野衣『感性は感動しない』

以前、絵を描いている人と美術館に足を運んだことがある。絵の具の作り方や、経年劣化を防ぐ技術など、テクニック的な話を聞くのは初めてだった。美術館の絵について飲みながら「絵を見るのは好きだけど、語る言葉を知らないので何も言えませんわ」みたいなことを言ったら「その絵が好きなら言葉なんていらないんですよ」と言われた。

この本はエッセイだが、もちろん美術批評的な話がいくつか出てくる。文章を書くことは、頭の中が整理されて思考を整頓した状態で出力することができるが、本来思考というのはもっとぐちゃぐちゃで、順序のついたものではない。誰かに伝えようと文章や言葉にした時点でその思考は少なからず整頓されたものになってしまうのだけれど、絵はそこが違う。描いた人が考えたことの過去から現在までがキャンバスの上に圧縮されて一つのモノとなって見る人の目の前に登場する。思考がかたまりのままなんだそうだ。そういうものと対峙するということは、すごく大変なことなんじゃないかと思った。この話を、一緒に絵を見に行った人にいつかしてみたいと思う。

 

『口語訳 遠野物語

先月遠野に行く際に、読んだことないし読んでみるかと購入したが、結局今月読み終わった。遠野の資料館で語り部のおばさんが方言で物語を語ってくれるのを聞いた。「〜たんだど」「〜なんだなも」みたいな語り口で、どうぶつの森に出てくる悪徳高利貸のたぬきちを思い出した。いや、もしかしたら「〜だなも」は言っていなかったかもしれない。

オシラサマ”という話があって、そのオシラサマの家?のような場所にも行った。囲炉裏の座布団に小さなおばあちゃんの人形が置かれ、その後ろにラジカセがあり、「今日はおばあちゃんがオシラサマと○○(別な物語)をエンドレスで話しています」と説明書きあった。恋人とおばあちゃん人形の向かいの座布団に座り、オシラサマの話を聞いた。聞き終わって席を立つとき、同じ話を繰り返すボケたおばあちゃんを一人残して去るような気がして少しかわいそうだった。

遠野物語は教訓や道徳がほとんど含まれていない。山に女がいて銃を持っていたので撃ったとか、死んだ妻がもともと好きだった幼馴染(その男も死んだ)とあの世で夫婦になっているNTRモノ、地蔵で遊んでいた子どもを注意したら夢にその地蔵が出てきて子どもの遊びを邪魔しおって!と叱られて病気になってしまったとか。先に書いたオシラサマの話には獣姦も登場する。詳しい成立過程は省かれていて、ただ読みやすさを追求した本なのだが、原文の読みづらさを考えるとかじるには良かった。

 

21日 佐藤泰志『君の鳥はうたえる』

今月は仙台短編映画祭があって、東京から友人が来たので映画を一緒に見た。その映画が良すぎて、劇場から出てカレーを食べて二人で本屋に向かい、それぞれ原作本を買った。

これは3人組の青春小説だ。現物の本というのは手に取った瞬間から、読む前の物語も結局は終わることが伝わってしまうものだけれど、この本は文章の端々が常に終わりを予感させる。丸かじりしたトマトのみずみずしささえ、次の行ではエピローグになってしまうような緊張感を保ち、当の本人たちの馬鹿騒ぎを目で追いながら、こちらは常にヒリヒリした気持ちになっていた。