2017年8月24日 体の輪郭が空気に溶けていく

中村天風の生きる手本』(知的生きかた文庫)を読んでみた。中村天風氏の講演を宇野千代氏がまとめたものだ。

読みやすい。たしかに読みやすいのだが、「じゃあどうすればいいの?」という初歩的な質問がすぐに浮かんでくること、「人間というのは~」みたいな言い方に対し「主語でかくない!?」と思ったりして、なかなか内容を飲み込むことができなかったというのが正直なところ。

 

しかし、この本にこんなエピソードが登場する。

結核が治らない天風は死に場所として故郷を選び、エジプト経由で帰国をはかる。そこで出会ったインド人が、そんな天風氏を見かね「着いてこい」と言い、天風氏をヒマラヤの寺へ連れて帰る。しかし二ヶ月経ってもインド人から何も言われないので、しびれを切らした天風氏は「いつになったら治し方を教えてもらえるのか」と尋ねる。

するとインド人は「お前に教わる準備ができていないから待っているのだ。こちらの準備はできている」と言い、天風氏は「教わる準備ならできています」と応戦。

次にインド人は水いっぱいのコップを指し、氏に「ここに湯を注げ」と要求する。天風氏は「そんなことをしたら湯も水もコップから溢れるではありませんか」と拒否する。

お前の頭の中はな、私がどんないいことを言って見ても、そいつをみんな、こぼしちまう。さっきの、水いっぱい入っているコップと同じような、そういう状態だと見ているんだ。いつになったら、この水をあけて来るかな。水をあけて来さえすれば、そのあとで湯を注ぎ込んでやれば、湯がいっぱいになるんだがな、と思っているんだが、いっこう、水をあけて来ない。お前の頭の中には、いままでの役にも立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくら俺が尊いことを言ってみても、それをお前は無条件に受け取れるか。受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、俺はしないよ。

 

なるほどたぶんこの状態なのかもしれない。が、どうやって頭を空っぽにすればいいんだろうね?

 

ところで今日のヨガのシャバ・アーサナが大変気持ちよかった。先生が、「体の輪郭が空気に溶けて、曖昧になっていきます」と言っていたのもよかった。

 

授業中、眠さに負けず、頑張ってノートをとっている。綺麗に字を書いている。先生の話も聞いている。

 自分ではできているつもりでいる。

 しかし授業が終わってノートを見返すと、一文字もまともに書けていない。そもそも書いたはずの文字数より明らかに少ない。そして聞いていたはずの授業の内容をカケラも覚えていない。ただとても、頭がスッキリとしている。ノートをとっていたときの記憶はある。でもあれだけ懸命に眠気を吹き飛ばしながら聞いた授業の内容はまったく覚えていない。たしかに聞いていたのに。

 

そういう経験はないだろうか?

 このノートをとっているときの状況、今日それに近いことをシャバ・アーサナの時間にできたような気がした。

ヨガ、もうちょっとがんばってみたい。