2017年7月8日どこかに行きたい

労働が始まった。旅行の続きはまた別の機会に書くことにした。旅行は終わっても人生は続いているのだから、順番なんて関係ない。ただし、記憶が薄れる前には書きとめて置きたいものだ。

ある好きなアニメのラストが「人生という冒険は続く」で終わるのだが、終了と同時にその後も人生が続いていくということを視聴者に訴えてくるという残酷なアニメだったんだな、と3ヶ月の短いフリーター生活を終えて思う。

 

労働をしながら、またこつこつと小銭を貯めて海外旅行に行きたいと思う。今回の職場も例に漏れず薄給なわけだけど、切り詰めて生活することには慣れているし、貯金はしないしする予定もないのでお金の心配はあまりない。心配なのは休みが取れるかだ。

先日職場の年下の先輩に、入社して2年で最大何連休を取得したことがあるのか聞いてみたら、まだ2日しか取ったことがない(それも風邪をひいた)、とのことだった。

やはり退職するしかないのだろうか。

 

どうしてこんなに旅行に行きたいのかな、とこの数日漠然と考えている。18歳のときに初めてパスポートを取って外国に行ってから、2013〜2016の3年間は一度も行ってないが、それ以外は毎年どこかに行っている。「いつかは行ってみたい」と言うだけの人もいるし、一度行ったきりで特に積極的にならない人もけっこういる。反対に、収入源が不明のままひたすら旅を続けている人もいる。

 

本谷有希子乱暴と待機』で、お兄ちゃんが玄関のドアを開け閉めするシーンがある。

「いいか奈々瀬。この世界はすべて自分があると思い込んでいるから存在しているだけで、実は目を離している隙になくていいところは省略されて消えているんじゃないかって気がしてしょうがないんだよ。だからつまり世界は今、こうやって見えている範囲しか実はできてなくて、たとえばこっちに一歩進めば一歩分だけ足されてる。で、そのぶん後ろの一歩は減らされてる。学校だって俺の視界から消えた瞬間なくなってると思う。なんか分かる、雰囲気で。先生もクラスのやつらも全部消えてる。……え? ああ、そうだ。なんか分かるんだ、雰囲気で。だからもしかしたら今こうやってお前と話してる俺の後ろにだって、ただ真っ白い空間があるだけかもしれなくて、だから俺はこうやって不意打ちで世界が手抜きしてないかどうか確かめてるんだよ。監査だよ、監査。査察、とも言うよ。」

ちなみにお兄ちゃんは映画では浅野忠信が演じている。これは極めていけば、職場を出た瞬間から日々おいしいビールが飲めそうだと思っている。監査は必要ない。消えてくれてかまわないが。

 

嫌いな詩人の詩に「朝のリレー」という作品がある。

カムチャツカの若者が キリンの夢を見ているとき

メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている

 から始まる詩だ。なぜ嫌いなのに諳んじているのかというと、小学5年の時の担任の先生が、これをクラスの朝の会で1年間暗唱させたからだ。いい先生だったけど、他にも五体不満足を課題図書にしたりと趣味はことごとく悪かった。いや、もしかしたら良すぎたのかもしれない。少なくとも、先生が紹介してくれたその2つは教科書の内容よりも自分の中に確かな爪痕を残しているわけだし。最近、麒麟の夏限定ビールのパッケージにもその詩人の詩がプリントされていて、この「朝のリレー」の裏社会バージョン「夜のリレー」があったらどうだろう、ということを考えた。紙幣で買われた警官がその足で女を買いに行くとき、みたいなかんじのやつだ。そうだったらどう思っただろう?(先生が紹介することはないと思うので知らないままだった線が濃厚だ。)

 

東浩紀の『弱いつながり』という本を読んだ。みんな旅行とか行った方がいいよ、ということがいろんな角度から言われる本なんだが、その角度が自分が考えるよりもずっと壮大で、在特会ヘイトスピーチしてる人も血だらけの人間を目の前にしたら国籍関係なく手を貸すでしょ、とかそんなかんじだ。ルソーが言うには、人間は群れるべきではないのに、人が困っていると「憐れみ」という感情を抱いてしまい、それがつい群れてしまう原因になっているらしい。だから人間の社会は「憐れみ」というわりと非合理な感情で成り立っているのだそうだ。そのような偶然の感情で成り立っているのに、群れ続けると強固で排他的な集団ができてしまうので、たまにはいろいろな偶然を手に入れに行こう、そもそも社会の基礎は曖昧なものなのだから、ということが言いたいんだと思った。

 

 以上が「どうしてこんなに旅行に行きたいのか」ということを考えていたときに思い出したり触れたりしたものだ。どれも当てはまる気がするし、見当違いな気もする。

世の中には一を聞いて十を知る人がいて、自分は一を聞いて一を知れたら上出来な方で、自分で見たものさえ信じないときもある。すでに2ヶ月前ベトナムにいたことは妄想かもしれないと思いはじめている。

確かなことは、月曜からまた、どこか遠くではなく仕事に行かなければならないこと、人生という冒険は続くということだけになってしまった。